Tの気まぐれ日記

2004年 新着10件の日記

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9 月 30 日[ジャンプ]
勝利!(CCCD)
先日エイベックスが、CCCDを見直すという方針を打ちだした。
すべてのタイトルを無条件でCCCDにするのではなく、タイトルごとに検討するというものであり、事実上CCCDの廃止と言ってよいと思う。
そして、今日、ソニーもレーベルゲートCDをやめる、という宣言をした。
ついに、あの忌まわしき「偽CD」が無くなるのである ヽ(^O^)ノ
両者とも、ユーザーの著作権意識が確立して・・などと言っているが、結局のところiPod人気のためのようだ。iPodにかぎらず、HDDプレイヤーはリッピング出来なければ価値半減なので、コピーコントロールなどというものは言語道断なのである。
自分で買ったCDのデータを利用できないのはおかしい、という至極あたりまえの主張がやっと認められて、非常に嬉しい。
P2Pソフト問題なども、大きく影響しているのだろうが、キチンとルールを守って、音楽を楽しみたいものである。

あとは、iTune Music Storeの 日本での開業待ち、ですかね (^_^;)
これは、もうちょっと権力意識の強い団体が圧力かけてるから、まだまだかな?
(アメリカ、ヨーロッパで出来るのに日本で出来ない、というのは恥ずべきことじゃ?)

記入 : T

8 月 24 日[ジャンプ]
気合いだー
浜口京子が金メダルとれなかった・・・・残念
 判定の表示ミスもあったし、判定自体にも若干問題あったような気がするが、「気合いだけじゃ勝てない」というのは的外れだと思う。
「気合い=根性論」ととらえての、もっともらしい解説が新聞に載ったことがあるが(負ける前の話である)、この浜口親子にはあたっていないと思う。いや、ほとんどの場合、気合いや根性を否定する人は、わかっていない、と私は思う。

 気合いや根性だけで成功できるはずはない。そんなことは当たり前である。やれることはすべてやったうえで最後に必要になるのが、気合い、なのである。

 論理的にやるべきことをやっていれば、あとはそれをキチンと出せばよい、気合いなど必要ない、という人は、わかっていない。気合いなんか入ると力んでしまい実力発揮ができない、も正しくない。
 気合いは、集中力である。目の前のことに集中して、それまでしてきたことを効率的に発揮するために最も必要なものである。理論的にどうとかいうことは、現場に来るまでの話で、現場では集中して目の前に起こることに対処することが必要なのである。ポジティブに考え迷いが浮かばないように、気合いを入れ集中する、のは最も重要なことである。無心とか無我夢中じゃあダメなんで、意識を集中させることがベストの結果出すために必要で、そのためには結局、気合い、が必要なんだけど、偉そうに研究するような人は、自分でそういう局面に立ったことが無いに違いない。

気合いだーーーっ!

良い言葉なんだけど、オンリーワンと一緒で勘違いされやすいのだろうなあ。

記入 : T

8 月 6 日[ジャンプ]
クリアブルー
最近お気に入りである。
まあ、ビールとしては、味もコクもなく、スッキリしているだけなので、そう割りきって風呂上がりなどに、清涼飲料酒、として飲んでいる。
発泡酒だもん、こんなもんだよな・・・と缶を見ていると、どこにも「発泡酒」と書いていない。「リキュール類」なんて書いてある。
あれっ?と思い、成分表示みたら、なんと焼酎が入っている。
ビールの焼酎割りなのである。
おそらく、ビールといってもホップはあまり使っていない、ビール味酎ハイ、なのだと思うが、これが結構イケルのである。
食事しながら飲もうとは思わないが、ノド乾いたときにはすっきりしていてヨイ。
こういう割りきりも必要だよ、ビールに近づこうなんて考えちゃいかんよ、と強くいいたいですなあ (^_^;)

記入 : T

8 月 7 日[ジャンプ]
セカチュウ
別にラブストーリーが好きなわけではない。連ドラもあまりみないほうである。
ただ「愛を叫ぶ」というのが気になって、ビデオにとって見ている。
実は私も「叫んだ」ことがある。
恋人、ではない。友人の死、である。

大学3年の5月、彼は大学にこれなくなった。構内の病院に入院したと聞いた。

 彼とは、大学の教養の時のクラスが隣で、授業をいつも一緒に受けていて、3年で同じ学科に進学することが決まってからは、話したり一緒に出かけたりしていた。親友というほどではないが、同じ志をもつ友人であったつもりである。
 3年で志望した学科に進学して、一緒に勉強を始めた矢先、「腰が痛い」と言い出し、入院した。骨髄のガンだったのである。
 頻繁とは言えないが、定期的に見舞いに行った。手術もしたし、抗がん剤治療もした。しかし、入院当時から、直らない、ことはわかっていたのである。
 かかりつけの病院からの紹介状とカルテを持って大学病院に行く途中、彼は中身を読んでいた。ドイツ語で書かれていたが、大学入試にドイツ語を選択した彼には読めてしまった。彼は、知っていたのである。
 すべてを知っていて、見舞いに来た我々と話していたのである。すべての治療は、最後の瞬間まで生のベクトルを「生きる」ほうに向けるためにすぎない、ことを知った上で彼は治療の苦しみに耐えていたのである。

 約1年半、彼は治療して、逝った。

4年次の卒業研究に入っていた私は、朝、彼が脳死状態に入ったことを聞かされた。予期してはいたので、大きな動揺は無かった・・・・つもりだった。
実験中に、彼の死、そして翌日の告別式の話を聞き、帰宅途中のバイクの上で私は叫んだ。
交差点で発進したとたん、わき上がるものがあり、右手のスロットルをひねり爆音をあげながら叫んだ。涙が止まらなかった。
悲しい、とかで表現できる感情ではなかった、叫ぶしかなかったのである。

今でも、あの夜のことを思い出すことが多い。
映画のセカチュウの話をテレビで見て、身近な人がいなくなったときの感情は同じなのかな、という興味をもち、テレビ版を見ているのである。

記入 : T

5 月 14 日[ジャンプ]
年金未払い
いいかげんにしろっ! という感じである 凸(`_')
国民に多くの負担を強いる年金法案を通そうという当事者たちが、支払っていないのである。真面目に払っている立場からしてみると、いいかげんにしろよ、という気持ちをもつのは当然である。

しかし、ここのところの騒ぎみていて、別の気持ちが湧いてきた。

 国会議員というのはいろいろと職を変わる人が多いから、手続き上の問題で未払いになることも多いだろう。払ったこともない、というヤツは論外だけど、ちょっと未払い期間がある、というのをまるであげあしとりのように騒ぎ立てるのはどうなんだろうか?
 悪いものは悪い。だけど、これだけ多いとなると、原因がある、と考えるほうがマトモなのではないだろうか? 払いたくないから払わない、という人が多いわけではないと思う(いないわけではないだろうが)。
 要するに、システムが複雑過ぎるのである。しかも、わかりやすく説明しようというところもない。いくら義務といっても、これではひどいのではないだろうか? 
 そろそろ、あげあし取りはやめて、年金システムをもっとわかりやすいものに変えて、国民への(型式的なものではなく、実を伴った)衆知を徹底する、という政治家が出てきてもよいのではないだろうか? 経済的に破綻しているからこその改正ではあるが、経済的以前に構造的に破綻していると言ったほうが、現実に近いのではないかと思われる。
 
もっとも、そういうマトモなことを言おうとすると「お前は払ってるのかっ!」なんて言うヤツがいるから、言い出しにくいのだろうなあ。それだけ、皆、未払い疑惑が多いのだろうなあ。

だれか、私は払っています! と胸はって言える政治家が、こういうこと言い出さないかなあ・・・

記入 : T

5 月 15 日[ジャンプ]
アテネ決定(その2)
熱くなって語ったら、文章が長すぎます、とCGIに蹴られた。
分割したら、文句なかろう。続きである

 アナリストを客席においての情報戦も、無線やパソコンを使うところが近代である。試合後のビデオ解析ではなく、リアルタイムの解析、そしてそれにもとづく作戦変更、いやあ、すごいもんだ。
 もともと、バレーの試合というのはコート内だと見えにくく、客席から見ていると当たり前のように見えることに試合中は気がつかないことが多い。それを、読んで、指揮をするのが名監督だったわけだが、今やそれだけでは、ダメなのである。使えるものは使う。ハイテク機器なら日本はお手の物じゃないか、なんでも使って選手の力を最大限までひきだしてもらいたいものだ。

 栗原、大友、佐々木、大山、高橋、そして吉原。これらが皆アタックしたら、相手にとっては逃げ場のないところでマシンガンで打たれるような気分なのではないだろうか。もちろん、なにが来ても拾う、成田がいてこそ、である。この成田だって、4年前はエースだったのである。アタッカーってコース読めるからレシーブ感いいんだよなあ。今回見ていて、身体能力というより読みのよさに舌をまいた。

これからアテネまでの調整に期待したいところである。中国に食らいつけるぐらいまで持って行って欲しいものである。

記入 : T

5 月 15 日[ジャンプ]
アテネ決定(その1)
 女子バレーである。ここ1週間、ずっと中継みていたが、ついに昨夜韓国に勝利して、アテネ行きを決定した。バンザイである。
 8年の悲願なのである。東洋の魔女時代からずっと続いていた出場が途切れていたのだ。まずは、出場出来ることを喜びたい。しかし、8年前すら、日本女子はすでに世界のトップではなかった。今度は、トップ奪回が目標である。
 それにしても、バレーボールも変わったものだ、とつくづく思う。ラリーポイント制の導入、サーブのネットインのOK、リベロというポジション、どれも20年前にはなかったものである。その20年前ですら、ホールディングなどの判定基準が昔と変わったりしていたのだから、ルールというのは変わるものなのだろう。

 変わったのはルールだけではない。ネット際での速攻は、もはやAやBではなく、ブロードである。ほとんどコート外に走り飛んで、飛んで来たのとは逆の方向に打つ。かなりなれないと、ブロックやレシーブは対応できないだろう。
 なんせ、打点が高いのである。一昔前なら、いくら横に広がっても、たかだか180cm弱の選手のアタックであったのであるが、今や180超はあたりまえ、190近い選手もいるのである。あれだけ横と上に広がると、かなりキビシイだろう。
 バックアタックも当たり前になってきた。私の記憶では、その昔、ポーランドのボイトビッチがバックアタックの達人で、当時まだキワモノだったバックアタックでポイントをバシバシ決めて、一気に知名度をあげたのである。その後、男子ではやる人間もいたが、女子では攻撃手段としてはあまり使われていなかったと思う。それが、いまやメインに近い、のである。身長が高くなっただけでなく、戦略として、縦横のほかに、奥行き、を出そうという意図があるのであろう。
 試合で、エッと思うところにトスがあがり、それを当たり前のように打つのを見るのは、気持ちがいい。栗原、佐々木、高橋、と皆当たり前のようにバックアタックをするのを見ていると、セッター楽しいだろうな、と昔セッターしていたこともある私は思う。後衛まで攻めに使えるのだから、パターンは山ほどあるわけである。もちろん、相手にとっては、キビシイだろうが。(つづく)

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4 月 14 日[ジャンプ]
自己責任
イラク人質・・・である。
家族の方々の心情は理解出来るが、とても主張に賛同はできない。
こういうことは当然予測できるから、政府としては勧告を出しているのである。知人すらもが止めるのを振りきって危険な地域に行っているのである、何があっても自己責任は当然である。
軍隊とは無関係な民間人だから開放してくれ、とテロリストに要求するのは、いい。宗教関係から手をまわして、何とかしようというのも、いい。でも、日本政府に、自衛隊を撤退させろ、と要求するのは、おかしい。
もちろん、テロリストの要求は、自衛隊撤退である。要求をのんで人質の命を助けたい、という気持ちもわかる。テロリストの要求などのむと、思うつぼという意見もあるが、私はそれ以前に、自衛隊は戦争しに行っているわけではないことを忘れてはいけないと思う。
きれい事、かもしれない。しかし、平和的貢献をするために、非常時訓練を積んだ人材として自衛隊をイラクに派遣する、というのは国会決議である。反対があったにしても、多数決で決めたことである。民主主義をうたうのなら従う姿勢を貫くべきである。
多数決を行なった議員は、国民が選挙で決めたものである。最終的な責任は私たち国民にあるのだ。政治家が勝手に決めた、という言い訳は、おかしいのである。

さすがに、本人たちも気がついたのか、自衛隊撤退をあからさまに訴えるのはやめたようだ。感情的になるのも逆効果ということに気がついたようだ。
でも、もう遅い、いろいろな嫌がらせが起きているようである。
嫌がらせ・・・あるべきでないのは言うまでもない。しかし、起きて当然のような気がする。

これが正義、などと簡単に言えない時代になったものだ、とつくづく思う。

記入 : T

1 月 24 日[ジャンプ]
オンリーワン
オンリーワンでいい・・
SMAPの唄の歌詞なのだが、前から言いたかったことがある。
 「ナンバーワンではなくオンリーワンを目指せ」は、ノーベル化学賞受賞の野依良治教授の言葉である。これは、『流行を追いかけて競争するのではなく、独自の路線で他人を引き離せ』というメッセージであり、科学の研究の本質を突く言葉であると思う。
 ガンといったら皆ガン、エイズといったら皆エイズ、そしてナノといったら・・・・という研究費配分も絡んだバカバカしいともいえる競争は今でもあるわけだが、そこに参加して時流に乗るのではなく、そういう流れを作る側になれ、というメッセージであると私は思う。
 しかし、SMAPの唄では「オンリーワンでいい・・」とくるのである。歌詞をよく読めば、個性が重要なのだ、という意味で、結局同じことを言っているのは分かるのだが、世の中の方々はチョット違うニュアンスで捉えているのではないだろうか。
 「私は私だから・・・・」というのは、それなりに何かをやっている人が言えば個性の主張として立派だと私も思う。しかし、なにもしない人が同じことを言えば、それは、逃げ、なのではないか? 何かをしなくてはいけなくなったとき、「私は私だから・・・・」と何もしないで(つまりまわりの人がやっていることは、しない)引きこもるのを「オンリーワン」と言うのだろうか? 「オンリーワン“で”いい」の『で』に、私は逃避的な色を強く感じる。
 世の中、イヤことしなけりゃいけないことも多い。そういう時「オンリーワンで・・」というのは、個性の主張なのだろうか? 程度問題というのもあるが、逃げの要素が大きいのではないだろうか。やるべきことやったうえで、人と違うことするのが、個性だろう。十人十色、みな違うからといって社会性まで否定するのは、おかしい。
 本来はそういう意味の唄ではないのであるが、どうも無意識のウチに逃避的な意味にとっている人が多いのではないだろうか。何が個性だ、と思えるような人が「オンリーワン・・」などといって、賛美しているのを聞くとゾッとする今日この頃である。

記入 : T

1 月 12 日[ジャンプ]
成人式考
 成人式会場の近くのコンビニをクルマで通ったら、キモノ&袴のオンパレードだった。会場が駐車場がほとんど無いため、コンビニ駐車場で待ちあわせていたのだろう、記念写真などを撮りあっていた。なにもクルマで来なくてもよいだろうに。
 もうずいぶん昔の話だが、私は成人式に出ていない。高校入学時に“ズルして”越境入学していたので、招待状は二箇所からきていたのだが、なんかバカらしくて、両方とも出なかった。親のスネかじっていたので成人という自覚が持てなかったし、なんか催しものもとってつけたようなものばかりで、出てみようという気がしなかったのだ。
 最近では、同級生などに会うために成人式に行くのであって式典などどうでもよい、というヤツラが多くてマナーが悪い、ということもあるようだが、ならば招待制やめて参加登録制にすればよいのに、と思う。同級生と会いたいなら自分たちで同級会を企画すればよいだろう。大人の立場で新成人を祝うという式典の主旨に同意出来ないものは出席しなければよい。参加申し込み書を送り付け、申し込みしたものだけに入場券を送り、式典をやればよいではないか。
 式典に意義感じられなければ参加者減るだろう。参加者があまりにも少なくなったら式典やめればよいではないか。かなりの予算かけているのだから、無駄なことはやめるべきだ。続けるべきだ、というのなら、若者に媚びることなく有益な企画を出して、一定レベルの(ちゃんとした)参加者を集める努力をするべきだろう。

 一律ハタチで成人式というのも、どうなんだろう。「よし成人」と思った時に出席できるシステムというもよいのではないか。20歳のものに招待状など出さなくても、出たい人が申し込めば出れる、というのも面白いと思うのだが。

記入 : T


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nikki2000 by chiharu