パスツールといえば、細菌説の提唱者とか、狂犬病ワクチンの発明者とかで有名であるが、実は化学者(昔は、学者というのはいろいろなこやってたのだ)である。最初の業績は、なんと“酒石酸塩の光学分割”である。酒石酸アンモニウムナトリウムの結晶をルーペで見て結晶の形で選り分け、おのおのの旋光度を測りエナンチオマーであることを確認した、という話は、キラリティー(キラルであること)の事を語るとき必ず例に挙げられると言っても過言ではないだろう。

 Comptes rendus, 28, 477 (1849)という学術誌に、 "Recherches sur les relations qui peuvent exister entre la forme cristalline, la composition chimique et le sens de la polarisation rotatoire"というタイトルで報告されているのだが、もちろん当時はキラルなどという概念はなかった。それどころか、化学結合が三次元的な構造を持つということすら分かっていなかったのである。論文の内容は、あくまで、「同じ組成のものであるのは間違いないが、結晶形が異なり、旋光性が逆である。分子の構造は、平面では表せない何かがあるようだ」というところまでである。現代の概念では、これらはR-酒石酸とS-酒石酸の塩であり、結晶形も鏡像体であり、まぎれもなくエナンチオマーである。報告された最古の光学分割なのである。

 ところが、この実験、そう簡単には再現できないのである。実は、ラセミ体の酒石酸塩を溶かしてから結晶を出したパスツールは、意識することなしに“ラセミ混合物”を作りだしていたのである。ラセミ体固体にはいろいろな状態があるのだが(ラセミ体三態参考)、このラセミ混合物の結晶が得られれば分割可能だが、ラセミ化合物の結晶となってしまうと、どの結晶をとっても体と体の1:1混合物となってしまう。1887年にvan't Hoffらは、この酒石酸塩結晶の「ラセミ混合物/ラセミ化合物」の生成は27℃を境にスイッチすることを報告している(Z. Phys.chem., 1, 165 (1887))。つまり、27℃以下で結晶析出を行なわないと、ラセミ混合物は得られないのである。

 普通、結晶析出させるときは、温めてたくさんの結晶を溶かしてから冷やす。実験室で行なえば、27℃以下というのは、空調の効いた現代では、意識的に行なわなくてはなかなか出来ない条件である。フランスは(パスツールはフランスの人ですよ)、緯度としては北海道と同じくらいで、結構寒い国であるため、昔の実験室では“自然に”ラセミ混合物が生成する条件が成立していたのではないかと思われる。さすがは、ブドウを潰しておくだけでワインになってしまうことがある国である。日本では、普通じゃ、無理、である。

 この酒石酸アンモニウムナトリウムのラセミ混合物とラセミ化合物の結晶の構造がどう違うのか、は1981年に黒田玲子(現東大教授)によって解明されている(J. Chem. Soc. Dalton Trans.,1981,1268)。分子間及び分子内の相互作用(水素結合)が、ほんのわずか違うだけ、なのだそうだ。このほんのわずかの違いとフランスの気候が、キラリティ研究の第一歩につながったと考えると感慨深いものがあるといえる。


 そういえば、有機化学を勉強したことのある人なら必ず一度は聞いたことのある“グリニヤール反応”のGrignardもフランス人である。マグネシウムとハロゲン化アルキルが湿気があると反応しないため、窒素やアルゴンなどの不活性気体中で反応させることの多い反応であるが、寒くてカラッとした気候のフランスでは“ほっといてもいく反応”なのかもしれない(-_-;)。
 高温多湿の日本では、とてもとても“ほっといては”いかない。最近では、ハイテク制御で、日本でのワイン作りも盛んだと聞く。やはり、日本人は勤勉なんだなぁぁぁあ・・・